1980年にYMOの「ライディーン」が大ヒットし、日本中が一大テクノブームになる。
当然、私もYMOにハマり、そこから深く音楽を追求していくことになる。
当時、あのシーナ&ザ・ロケッツでさえもテクノバンドとして認識されていた。
それは79年12月に発売された「ユー・メイ・ドリーム」がYMOのサポートの元発売され、当時かなりヒットしたからだ。今聴くと全然テクノじゃないのだが。

テクノが社会現象になると、日本独自の表現方法「○○御三家」という方法論に則り、「プラスチックス」、「ヒカシュー」、「P-MODEL」がテクノ御三家と呼ばれるようになる。
当時の私の記憶ではYMOは別格として、その次にプラスチックス、次いでヒカシューあたりが一般的には知名度があったような気がする。P-MODELはあまり知名度がなかった。

実際、当時中学生だった私のクラスでもテクノは必聴だったが誰もP-MODELを知らなかった。
実は私もP-MODELを知ったのは偶然であった。

中学1年坊の頃、今でも音楽好きの間では絶大な人気を誇る、赤と黒で御馴染みの中古&輸入レコード店の関内店で私はいつものように中古レコードを漁っていた。
余談になるが、あのころ関内店は2階が中古、3階が輸入と2フロアあった(と記憶してるが定かではない)
金が無い私は専ら2階専門で、たまに3階にいる先輩音楽マニアの人達の高速でレコードを漁る姿を眺めては「かっこいいなぁ~」と憧れたものだ。

話は戻る。P-MODELだ。

日本のロック中古コーナーを物色していた私の目に一枚のレコードが飛び込んできた。
「囲碁?」と思わせる、黄色とピンクが鮮やかなレコードジャケット。
「なんかカッコいいジャケットだなぁ~」と思い、アーティスト名を見ると「P-MODEL」と書いてある。
どんな音楽なんだろうと思い帯の説明文を見ても、
「ロックを丸かじり、シャープな時代感覚とプラスティック・センスは音楽の流れを変える!」
としか書いてなくさっぱりわからない。でもジャケットがカッコいいので購入した。
「初・ジャケ買い」である。
それに値段も安かった。確か100円だった。


IN A MODEL ROOM

家に帰りさっそくてんとう虫のレコードプレイヤーで聴いてみる。(当時、私の家にはそれしかレコードを再生する機器がなかった!)
テクノ小僧だった私は喜んだ! だってピコピコしてるんですもの。
しかしYMOやプラスチックス程、ピコピコ度は高くないのでその後何ヶ月かは放置していた。
だた、あの頃は身銭を切ったレコードは何回も聴くという習慣があったので、また聴くようになる。何回か聴いてるうちにだんだんよくなってきた。
テクノとして聴くからイマイチなのであって、パンク/ニューウェイブとして聴けば自分の中での評価も変わる。そういえば当時のメンバーの衣装とか見ると確かにパンク/ニューウェイブの格好だ。

P-MODELとDEVOを替わりばんこで聴いているうちに「ギターってかっこいいな」と思うようになった。
テクノが好きで聴き始めた両バンドだが、ピコピコよりギターのかっこよさに気付いてしまい、しまいにはピコピコが邪魔になってきた。

完全にP-MODELにハマッてしまった私だが、楽曲やギターのかっこよさはもちろん、歌詞が一番印象に残った。

A面1曲目の「美術館で会った人だろ」なんてタイトルのつけ方のセンスの良さはバツグンだ。
勿論、詩の内容もバツグンで、解りやすい言葉で意味不明な内容はP-MODELの独自な世界観を創り出している。

B面5曲目の「MOMO色トリック」に「アホのリノでも見にくるぜ」とか「ユージさんにはわかるまい」という歌詞が出てくるのだが、当時は「誰?」って感じだった。
今は私も大人になって誰だか解っています。

B面3曲目の「偉大なる頭脳」は実はP-MODELの前身バンド「マンドレイク」時代の曲をアレンジしたものである。

マンドレイクは1973年に結成されたP-MODELのベース以外のメンバーが在籍していたヘヴィなプログレバンドで、当時はレコードリリースはなかったものの渋谷や吉祥寺を拠点にアンダーグランド・シーンではかなりの評価を得ていたようだ。

1997年に突然、マンドレイクの未発表音源がリリースされた。
「錯乱の扉」という曲は1973年に録音されたようでその内容は驚異的だ。
この曲の1節が、P-MODELの「偉大なる頭脳」に変身するのである。

当時はレコード化されていないだけで、実はとんでもないバンドが日本にたくさんいたんだろうなぁ。
海外のように当時未発表だったバンドの音源が現在CD化され陽の目を見れるようになると嬉しいのだが。

マンドレイクにしても、カテゴリー的にはプログレバンドに属していた四人囃子にしても、後期になるとテクノ/ニューウェイブなサウンドになるのがとても印象深い。
ムーン・ライダースの鈴木慶一氏が「ニューウェイブは分岐点だった」と発言しているが、70年代初頭から活動してたミュージシャンにとってはそれほど「パンク/ニューウェイブ」は衝撃的かつ脅威だったのだろう。